(本記事は広告を含みます)
現代人は本を読まないと言われてひさしいが、確かに仕事から疲れて帰ってきて、本を読むというのは一苦労である。
働くことで読書もできない社会は正しいのか?この本を読んでそう思った。
なぜ本来楽しい読書が苦を伴うのか?
そもそも本を読むという行為は苦労を伴うものだっけ?
もっと楽しいものだったような?
そこには労働と読書の因縁が、明治以降ずっと続いているのだ。
著書では、明治以降の時代に合わせて変化する読書へのニーズやベストセラーの紹介がなされる。
そして、読書ができなくなるほど全身全霊で仕事に打ち込むことを美徳とする社会の雰囲気に違和感を唱えるのだ。
作者の理想と現実のギャップ
作者は自ら絵空事と自嘲しながらも、読書ができなくなるほどの長時間労働、全身全霊主義をやめて、半身で仕事に取り組むことを推奨する。
確かにわかる。わかるよ。
週5で残業も含めて10時間以上働き、1時間かけて帰って酒を飲み寝る。味気ない。
確かに仕事に熱中する時期もあった。
だが仕事だけで充足するには、大抵の人にとっては人生は長い。
かと言ってサラリーマンの大抵は、毎日定時上がりをして読書をしていては満足な給料は得られないだろう。(特に子供がいる場合)
ここに作者の提言と現実のギャップを感じてしまう。
勿論、これから「仕事の後に読書ができるような社会」を作っていこうという著者の前向きな提案であり、そのような考え方が広まってほしいと思う。
休むことを許さないのは自分自身
さらに作者は昨今の新自由主義では、仕事を全力でやるように仕向けられていると語る。
他人から働けと言われているようで、本当に自分を労働に追い詰めているのは自分自身。
「もっと自分はできる。」「仕事で輝ける。」そのためにもっともっと働け。
そのようにニュースも、スマホの広告も、成功者の実業家も言ってくる。
もちろん、強制ではないがそうしなけれ敗北者であるかのような錯覚にとらわれてしまう。
ノイズをともわないスマホ
はたしてそれが人間として最良の生き方だろうか?
読書する気力もわかない労働の先にあるものはなんだろう?
そんな労働者のまえに現れたのがスマホだ。
作者いわくスマホには自分が知りたい、眺めたいものだけが映し出され、その他の考え方、余計な情報が入ってこないという。それらを総じてノイズと呼んでいる。
長時間労働のあとに余計なノイズが入らないスマホばかり見てしまうのは当然なことか。
ノイズこそ人間を豊かにする
だが自分にとってストレスにならない、ノイズフリーな情報ばかりでは人間の思考は単純で偏ったものになってしまう。
新聞を読んでいて、興味がなくても新しい社会の動きやコラムの考え方に刺激されたり、小説などで自分の思わない展開になったり。余計とも思われる情景描写や心理描写に想像を巡らせたり。
これらのノイズを日々吸収する事が、人間性を豊かにし、人生を味わい深いものにしてくのだろう。
「なぜ働いていると本が読めなくなるのか」
具体的な解決策はまだ見いだせていないが・・・働いて帰ってから読書ができるような、ゆとりある社会に今後なっていってほしいと思う。
作者の「全身全霊を美徳にするのをやめませんか?」という言葉が胸に響いた。
この本を読んで、「時代背景や労働スタイル」と「読書」の関係を紐解いてみてはどうだろう?
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